昔は「水を飲んじゃダメ」と言われたのに、今は「こまめに飲みなさい」?なぜ? 実際、トップランナーはどれくらい水分をとっているの? この特集では、運動中の「水分補給」について、スポーツ科学の視点からみたお話を紹介します。
伊藤静夫(元日本スポーツ協会スポーツ科学研究室室長)
これは、2014年5月31日に開催された「これでいいのか!?2020オリンピック・パラリンピック第1回提言討論会」(2020オリンピック・パラリンピックを考える都民の会・新日本スポーツ連盟附属スポーツ科学研究所準備会共催)での発表「暑熱下でのオリンピック開催への提言 暑熱下のマラソンの安全対策は?」から内容を抜粋・要約したものです。
[1] 飲むべきか、飲まざるべきか?
ひと昔前までは「練習中に水は飲むな」と言われていました。今の若者が聞くと「エッ?」と思うかもしれませんが、当時はスポーツ活動中の水分補給は身体にとっても精神的にも好ましくないと考えられていました。1964年東京オリンピックの頃でも、競技の現場はもとより学術的な見解もそういう考え方でした。
その常識が1970年以降、大きく見直されることになりました。水を我慢することはいいことなのか、という疑問を解明するために科学的研究がスタートしたのです。
例えば、こんな研究が行われました。マラソンレース参加者に依頼し、レース前後の体重(脱水率;汗でどのくらい水が失われているか)とレース後の体温(直腸温;お尻の中の温度)とを測定しました。すると、身体の水が失われ、脱水率が高くなるほどオーバーヒートしているというクリアな結果が得られたのです。この結果から、しっかり水分補給をしないと脱水を招き、オーバーヒートして熱中症を招きかねない危険な状態になる、という警鐘が発せられることになりました。そして、研究者もスポーツ現場の人たちも大いに納得したのでした。
なかでも、アメリカ・スポーツ医学会は、1974年から何回かにわたって「長距離レース中の適切な水分補給に関する勧告」を出しています。それまで、「できるだけ水分を摂るな」と言われてきたのが、それ以降96年まで「できるだけ水分を摂りなさい」と真逆の考え方に変わったのです(図1)
[2] 昔のランナーは水を飲まなかった…今は?
アベベ選手(60年ローマ・64年東京五輪金メダリスト)などのエリートランナーも日本の優秀ランナーも、ともかく昔のランナーはレース中にほとんど水分を摂っていませんでした。
では、今のランナーはどうでしょうか?「できるだけ摂るように」という勧告に従えば、昔と比べて水をたくさん飲んでいるのでは??その実態を調べようと、04年アテネ五輪のときに面白い研究がされています(図2)。
それは、マラソンレースのテレビ中継映像から、選手が給水した時間や飲み具合などの飲水行動を調べ、レースを通してどれくらいの水分を摂ったかを推定するという研究です。このとき優勝したのは、野口みずき選手。調査によれば、野口選手が給水した時間は、トータルでわずか32秒。飲んだ量は810㏄、1時間あたり350㏄程度でした。アメリカスポーツ医学会が勧める水分補給量を大きく下回る飲水量でした。
トップランナーは2時間で500ccしか飲んでいない!?
同じ方法で、テレビ放映されるようなメジャー・マラソンの13レースで優勝した選手の給水量と脱水率(走行スピードから推定)を調べた研究結果によると、チャンピオン・ランナーたちはレース全般で500㏄程度しか水分を摂取していないことがわかりました。脱水率をみると、8~9%になります。これら一連の研究では、実測値ではなく推定値に基づくものであることを考慮しなければなりませんが、これまでの常識からは考えられない脱水状態でトップランナーたちは42㎞を走破しているのです。
記録のよいランナーほど脱水率が高い
現在、長時間運動時での脱水率とパフォーマンス(記録)との関係について、マラソンレースなど実際のスポーツ活動について調べた研究が数多く報告されるようになってきました。その結果、水分を摂ってない人のほうが成績(記録)が良いという傾向が認められます。。この辺りは、これまでの科学の常識とは大きくズレています。
水を飲まない方が記録は良くなる?こういうことは、古くから現場の競技者やコーチの実感であったと思います。水は我々の生命活動になくてはならない基本的な物質であり、だからこそ極めて精妙に調節されています。不足にもならず、過剰にもならない絶妙なバランスがとられています。そこには、単に水の出納だけではなく、体内でのダイナミックな水の移動・調節が行われていると考えられるのです。
確かに、トップランナーはこれまでの科学的常識を覆す脱水耐性を発揮しています。この謎が、これからの研究によって解き明かされることの期待したいものです。
[3] 市民ランナーは…飲み過ぎにも要注意!?
オリンピック選手の脱水耐性が特別なものとすると、一般の市民ランナーについてはどうでしょうか。よく「喉が渇く前に水分をこまめに摂りましょう」と言われますが、多くの人は「できるだけ水分補給をしたほうがいい」と理解していると思います。
ところが、それをあまりに律儀に実行しすぎると、飲みすぎの危険というのが出てきます。低ナトリウム血症、いわゆる「水中毒」という症状です。
実際に、死亡事例も出ています。2002年ボストンマラソンで、初心者の女性ランナーが35㎞地点で倒れ、病院に搬送されましたが、2日後に亡くなってしまいました。原因がさまざまに調査されましたが、スポーツドリンクを大量に飲んだことによって血中のナトリウム濃度が薄くなってしまった低ナトリウム血症が原因であることがわかりました。
意外と多い「水中毒」
調べてみると、何万人も走る市民マラソンでは意外に低ナトリウム血症による事故例が多いんです。03年ロンドンマラソンでは、病院に搬送された選手のなかで、一番多かったのが低ナトリウム血症でした(図8)。また、マラソンやトライアスロンなどのレース後に選手の血中ナトリウム濃度を測定してみると(延べ2千人以上)、脱水よりもレース後に体重が増えている例も少なからずみられ、そうした例では概ね血中のナトリウム濃度は低下していました。
低ナトリウム血症血漿とは、外見の症状は同じでも脱水とは正反対に水の飲み過ぎが原因です。細胞の水が過剰になり、症状としては不安感、めまい、頭痛などが起こり、さらに重篤な場合には肺や脳に水がたまり肺水腫や脳浮腫を発症し、最悪の場合には死に至ることもあります。
今まで積極的に水分補給を推奨してきたアメリカ・スポーツ医学会もその見直しを迫られ、2007年の勧告においては、体重の2%以内の脱水を許容する内容に改め、水を飲み過ぎないように低ナトリウム血症の予防を喚起する内容に変更しました。
ランナーの虚脱 はたして脱水が原因か?
マラソンをはじめスポーツ活動中の安全対策にとって、中心的な課題の一つは熱中症予防でしょう。熱中症の原因として、よく脱水があげられます。ただし、その関係性が余りにも短絡される傾向は否定できません。さらに、マラソンや駅伝などのレースでは、選手がフラフラになって倒れたりするシーンを見かけることがありますが、その原因を直ちに「脱水だ」と判断してしまう嫌いもあります。箱根駅伝を例にとれば、低い気温と20㎞のレース時間を勘案すれば、5%以上の脱水になることはまず考えられません。
レース中、フラフラする(虚脱)原因はさまざまであり、「高体温」と「低体温」、「低ナトリウム血症」と「脱水」などまったく逆の原因になります。例えば、「脱水」が原因なら適切に水分を補給しなければなりませんが、同じ症状でも「低ナトリウム血症」なら全く逆に水分を制限しなければなりません。レース時での医療救護において、レース中に起きた虚脱の原因を的確に判断して対処すべきことは言うまでもありません。
[4] マラソン(スポーツ活動中)の熱中症対策は?
決して無理をしないこと
熱中症、とりわけ重篤な熱射病では、一見それほど深刻な様子には見えなくても、手遅れになれば死亡率が高く極めて危険な状態なのです。暑さを避け、こまめに水分補給を心掛けることなども重要な予防方法ですが、なんと言っても熱中症予防で大切なことは「無理」をしないということです。体調不良を押して実力以上に頑張ってしまうことが思わぬ事故につながることは、多くの調査結果が示しています。
その日の体調を良く把握し、ともかく無理をしないことが肝要です。
それでは、暑いときのマラソン、あるいはトレーニングはしてはいけないのでしょうか? ここで、自分なりに頑張ることと、無謀に無理をすることを明確に区別しておきたいのです。それには、自分の体調、コンディションを的確に把握することでもあります。
水分補給は何リットル飲まなければならない、といった外部の数字に依存するのではなく、今、自分は今日の暑さをどのように感じ、今、喉の渇きをどれほどであるのか、そうした内なる声に敏感に対応することが大切です。そうした心がけが持てれば、例え初心者ランナーでも実践可能です。そうした内なる声を聞きながら、日々のトレーニングに励み、そしてレースで頑張るのです。それがもっとも効果的な熱中症予防であり、同時に、もっとも効果的なトレーニングでもあります。
「スポーツのひろば」2014年12月号より