1950年代の東側共産主義政策健在の中、旧ソ連対ハンガリーの水球の試合。端で競技を見つめるもの、競技者はそれぞれ不正なレフェリングに〝そりゃねぇよ〟と疑問ながら、開始前から決まっている試合の結果をただ待っていた……。
そんな〝中東の笛〟的な展開で物語は始まる。この不条理判定は、非正常な国の関係そのものを現していた。不条理な行為の意図、それは正にこの時の状況と北京ハンドボール予選で違いはない。この不条理は、厄介な問題そのものを続けている。つまり今も昔も、同じようなケースが残っているということだ。
現在、スポーツは、生活の豊かさを示すバロメータであるともいえるが、かつては「単なる国力を示す道具でしかない」存在だった。現在のスポーツの精神こそ前者だと思ったら、未だに後者の考えで進んでいる状況で問題となるケースは後を絶たない。
この物語は、国が新たな方向へ導き出されている状態を、スポーツの中に見える精神の表れと、政権の不安定な状態(戦争を含めて)という二つの観点で表している。
一方では旧ソ連を倒し、新たな世界王者となるハンガリー水球。その勝利に、新たな未来に喜びを爆発させる選手たち。一方では国の情勢に流され、命を落とさんとする人々。
この残酷な結末は、スポーツの社会への関わり方を見直す一つの大きなヒントとなるのではないかと思う。新スポ連の掲げるスポーツ権の思想を、改めて見つめるきっかけになるのではないだろうか。
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